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電光と雷鳴 1アジサイの上に止まったとかげ ダニキチは司法試験に五回連続で落ちた。 ダニキチは実力はあるのだが、論文式の試験で誤字を書くので誤字一個ごとにマイナス一点が引かれるのでけして受からないのである。 ダニキチはその事に気づいていたが、自分では誤字を直す努力はしなかった。 そこに神様が不意に現れた。 「八重の桜法科大学院のダニキチよ」 ダニキチは言った。 「はい、私がダニキチです」 神様は言われた。 「司法試験にお前を合格させてあげよう」 ダニキチは言った。 「無理です。司法試験は五回しか受けられないのですから」 神様は言われた。 「私は神だ。時間を逆戻りさせて、お前を合格させてあげよう」 ダニキチは言った。 「本当ですか」 神様は言われた。 「けれども一つだけ条件がある」 ダニキチは言った。 「何でしょうか」 神様は言われた。 「お前が持っている松下奈緒グッズをすべて捨てろ」 ダニキチは言った。 「なぜですか」 神様は言われた。 「松下奈緒グッズを持っていてはお前は弁護士として仕事に専念できない」 ダニキチは言った。 「僕は公私の区別はきちんとわきまえています。 弁護士になったら松下奈緒グッズを私的な時間に磨くことにします」 神様は言われた。 「口では何とでも言えるさ」 ダニキチは言った。 「わかりました。松下奈緒グッズをすべて捨てます」 ダニキチはさらに言った。 「約束します」 その日、ダニキチは家に帰ると松下奈緒グッズを燃えるごみの袋に入れた。 そして、お母さんに言った。 「お母さん、これ捨てておいて」 お母さんは言った。 「これはお前が命の次に大切にしている松下奈緒グッズじゃないか」 ダニキチは言った。 「いいんだ」 ダニキチの瞳には大粒の涙が浮かんでいた。 お母さんはダニキチには何か訳があるのだなと思ってそれ以上は聞かなかった。 そして、翌朝松下奈緒グッズをごみステーションに出した。 すると、不思議なことにダニキチは五回目の司法試験に合格していた。 時間が遡ったのである。 弁護士となったダニキチの活躍は目覚ましかった。 訴状に誤字を書く過ちこそ何度か犯したものの刑事専門弁護士としてカミソリと呼ばれた。 人々は言った。 「まるで弘中惇一郎の再来を見るようだ」 弘中惇一郎はかつてカルロスゴーンの弁護士として彼を弁護したことで知られる弁護士である。 カミソリという異名で呼ばれた。 しかし、ダニキチには秘密があった。 事務所の机の引き出しに鍵をかけて、そこに一枚の松下奈緒グッズを隠していたのである。 これは母親に松下奈緒グッズを捨てる際にとりのけて残していたものであった。 ある日、ダニキチが部屋に鍵をかけて、引き出しから松下奈緒のうちわをとりだして眺めていると、窓の外のアジサイに止まったとかげがそれを見ていた。 とかげはすぐに神様に報告した。 「ダニキチはすべての松下奈緒グッズを捨てたというのは嘘です」 神様は言われた。 「何だと」 神様は再びダニキチの前に立った。 そして、言われた。 「ダニキチ、なぜ私がお前の前に現れたのかわかるな」 ダニキチは言った。 「許してください」 神様は言われた。 「ダメだ。お前などはこうしてくれる」 神様が持っていた杖を一振りすると、雷鳴が起こり、ダニキチは雷に打たれて死んだ。 https://m.youtube.com/watch?v=xY7USZye-wg 翌日、掃除のおばさんが黒こげになったダニキチの死体を見つけて警察に届けた。 検視に当たった警察官は言った。 「雷のような高圧電流によって焼け死んだようです」 刑事は言った。 「ダニキチは部屋の中で雷に打たれて死んだと言うのか」 2 いのちのなまえ 刑事は所轄の警察署に戻った。 すると、警察署がざわめいていた。 刑事は巡査に尋ねた。 「何があったのか」 巡査は言った。 「捜査本部が立ち上がるのです。若林刑事」 刑事の名前は若林津吉と言った。 「わかばやしよしきち」である。 若林刑事は苦笑した。 なぜならば、捜査本部は殺人事件のあったときや誘拐事件のあったときに立ち上がるが、その経費は警察署の負担となる。 警察署の忘年会の費用がそれで吹っ飛ぶのであった。 捜査本部の名前は「ダニキチカミソリ殺人事件捜査本部であった」 若林津吉は「ダニキチ殺人事件」でよいと思ったが、カミソリをつけることでマスコミ受けをねらったもののようであった。 捜査本部の名前は「戒名(かいみょう)」と俗に呼ばれ、警察署長が副署長と相談して決める。 なお、捜査本部には県警本部から監理官が来て署長の横に座って挨拶する。 監理官の名前は山本一郎といい、キャリア(国家公務員上級職合格者)であった。 山本一郎は言った。 「今回の事件は弁護士として有名な被害者の事件であり、マスコミの注目度が高い各自精励して事に当たってほしい」 若林津吉は手を挙げて言った。 「被害者は部屋の中で雷に打たれて死んだようです」 山本一郎は言った。 「殺人事件ではないというのか」 若林津吉は言った。 「雷を利用した殺人事件の線で考えています」 山本一郎は言った。 「捜査の方針を決めるのは私だ。所轄の刑事は我々の方針に従っておればよいのだ」 若林津吉は言った。 「申し訳ありません」 さっそく聞き込みが行われた。 若林津吉はもう一人の刑事釘抜京子(くぎぬききょうこ)と組んでダニキチの周辺の住民に尋ねた。 すると一人のおばさんが言った。 「事件のあった前の日にとかげがアジサイの上に止まってダニキチさんの部屋をのぞきこんでいました」 釘抜京子は尋ねた。 「そのとかげはよくダニキチの部屋をのぞきこんでいるのですか」 おばさんは言った。 「いいえ、その時初めてですね」 若林津吉は言った。 「とかげが初めてダニキチの部屋をのぞきこんだ翌日に事件は起きたとすると、とかげが何かを見たのかも知れませんね」 おばさんは言った。 「犯人が早く捕まることを祈っています」 次に若林津吉と釘抜京子はダニキチの実家に行った。 ダニキチの母親は70代で息子に先立たれたことを嘆いた。 「ダニキチは高校野球が好きでした。 本当なら仙台一の名門仙台二高に入れる力を持っていたのに仙台育英高校に入ったのも高校野球が好きだったからです」 ダニキチの母親は若林津吉と釘抜京子に最後にダニキチからもらったメールを見せてくれた。 「僕が仙台育英の戦いで一番よかったと思うのは、夏の宮城大会決勝で仙台育英がダルビッシュと戦っている試合を見て決めたんですよ、夏の大会で、仙台育英は東北と戦って、5-4で負けました、いい試合だったんですよ。 たぶん3年生のダルビッシュを一番苦しめたのは仙台育英です。 甲子園に来るのが当然と思われていたダルビッシュを最後の最後まで追い詰めましたから、でも眼鏡君は出てきませんでした。 仙台の夏は軽井沢より涼しく、以前宮城県知事が壇蜜を使って(誕生日一緒です)、仙台の夏は軽井沢より涼しいから来てねと宣伝していましたが、まあ無理でしょう。 何故ならば、仙台の夏は暑くはありませんが、曇りの日が多いからですね、曇っていて、偶に梅雨が明けない年があります。 その年は1年の大半を入院して過ごしていた年ですね。 2020/07/04 22:24」 釘抜京子が言った。 「眼鏡君とは誰ですか」 若林津吉は言った。 「それはとりあえず今回の事件とは関係ないからいいだろう」 ダニキチの母親は言った。 「この時のことは私もよく覚えています。 私はダニキチが死ぬだろうと覚悟を決めて事態を見守っていました」 二人はダニキチの母親と別れて所轄に戻った。 すると、捜査本部が解散になるところであった。 若林津吉は再び巡査に尋ねた。 「何があったんだ」 巡査は言った。 「上からの圧力があったようです」 釘抜京子は若林津吉に言った。 「私たちの聞き込みは無駄になりましたね」 若林津吉は言った。 「何を言うんだ。捜査に無駄なことなど一つもない。今回はダニキチのお母さんに会って話を聞けた」 釘抜京子は言った。 「わかりました。その通りですね」 警察署の窓の外にはでっかい入道雲がむくむくと頭をもたげ、夏の到来を告げていた。 青空に線を引くひこうき雲の白さは ずっとどこまでもずっと続いてく 明日を知ってたみたい 胸で浅く息をしてた 熱い頬さました風もおぼえてる 未来の前にすくむ手足は 静かな声にほどかれて 叫びたいほどなつかしいのは ひとつのいのち真夏の光 あなたの肩に揺れてた木漏れ日 つぶれた白いボール 風が散らした花びら ふたつを浮かべて見えない川は 歌いながら流れてく 秘密も嘘も喜びも 宇宙を生んだ神さまの子供たち 未来の前にすくむ心が いつか名前を思い出す 叫びたいほどいとおしいのは ひとつのいのち帰りつく場所 わたしの指に消えない夏の日 https://m.youtube.com/watch?v=LCbLK2fG2eM 3少年 釘抜京子は勤務を終えると家に帰って来た。 六畳とキッチンとお風呂場のある家賃七万五千円のアパートである。 以前交番勤務の巡査であったときは三交代勤務で帰宅時間は不定期であったが、刑事になってからは定時に帰れるので楽だった。 釘抜京子はすでに警部補であった。 高校を卒業してすぐに警察学校に一年半入り、毎日を警察官として過ごし、巡査、巡査長、警部補と順調に昇進した。 釘抜京子の父は警察官だった。 30代の半ばで交番に現れた少年にナイフで刺されて死んだ。 拳銃を奪われなかったのが、幸いであった。 釘抜京子は父の代わりに警察官として、彼がなれなかった警部補になれたことを誇りに思っていた。 釘抜京子は冷蔵庫から三ツ矢サイダーを取り出すと缶を開けて飲んだ。 ごくごくと喉を震わせて飲む夏の三ツ矢サイダーはとても爽やかであった。 けれども、釘抜京子の心は晴れなかった。 同僚の刑事若林津吉との会話が重く心にのしかかっていた。 「私たちの聞き込みは無駄になりましたね」 そう言うと若林津吉は言ったのであった。 「捜査に無駄なことなど一つもない」 釘抜京子は自分が若くして警部補となって思い上がっていたことを恥ずかしく思った。 若林津吉は釘抜京子よりも階級が下の巡査長であるが、43歳で人生経験がとても長かった。 釘抜京子は部屋にあった文庫本を手に取った。 三好達治の測量船という詩集であった。 少年 夕ぐれ とある精舎(しやうじや)の門から 美しい少年が帰つてくる 暮れやすい一日(いちにち)に てまりをなげ 空高くてまりをなげ なほも遊びながら帰つてくる 閑静な街の 人も樹も色をしづめて 空は夢のやうに流れてゐる 釘抜京子は本を声を出して読み上げた。 そして、本を投げ出すと布団を頭から被ると明かりを消した。 白い坂道が空まで続いていた ゆらゆらかげろうが あの子を包む 誰も気づかず ただひとり あの子は昇ってゆく 何もおそれない そして舞い上がる 空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲 高いあの窓で あの子は死ぬ前も 空をみていたの 今はわからない ほかの人にはわからない あまりにも若すぎたと ただ思うだけ けれどしあわせ 空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲 空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲 https://m.youtube.com/watch?v=9HInQDjCCRc 4夏が来れば ダニキチの葬儀は殺人のあった日から一ヶ月遅れて執り行われた。 本来なら三日ほどで葬儀が行われるのだが、コロナ渦でお坊さんの日程が密になっていたのであった。 小田原の北条寺で行われた葬儀にはダニキチの母親のよしえと地元の警察署の若林津吉と釘抜京子、そしてダニキチの名古屋大学法科大学院の同級生緒方君が参列した。 四人だけの寂しい葬儀であった。 和尚さんがお経を唱えるとみんなはしずかにそれを聞いた。 そして、葬儀を終えるとお寺の一室でみんなでご飯を食べた。 和尚が言った。 「今回のダニキチさんの死は本当にお気の毒でした」 するとダニキチの母親が言った。 「あの子は生まれつき体が弱く石原さとみさんがドラマで演じた免疫の病気にかかっていました。 これまで生きてこれたのが不思議でしたわ」 すると釘抜京子が言った。 「そのドラマはもしかしてディアシスターですか」 よしえは言った。 「その通りです」 若林津吉は言った。 「今回の事件は上層部から圧力がかかり、捜査本部が解散になりました」 釘抜京子は言った。 「でも捜査は無駄になったわけではありません。いつ時計が動き出して再び捜査が開始されるかわからないのですから」 若林津吉は言った。 「その通りだ。釘抜警部補」 よしえは言った。 「お若いのにもう警部補におなりですか、偉いですわ」 若林津吉が尋ねた。 「お母さんは警察の階級に詳しいのですか」 よしえは言った。 「以前ストロベリーナイトで主人公の姫川玲子が警部補でしたわ」 和尚が尋ねた。 「竹内結子が主演のドラマですか」 よしえが言った。 「はい、その後二階堂ふみでリメイクされました」 釘抜京子は言った。 「リメイクもご覧になられたのですか」 よしえは言った。 「いいえ、見ませんでした」 その時、お寺の軒に吊るしてあった風鐸(ふうたく)がジャランと鳴った。 不意にそれまで黙っていた緒方君が言った。 「実はこれまで黙っていましたが、ダニキチは名古屋大学法科大学院でいじめにあっていたのです」 釘抜京子は尋ねた。 「それはどんなものでしたか」 緒方君は言った。 「教室の出入りの際に体当たりされたり、刑法のレポートを隠されてました」 よしえは言った。 「そんなことがあったのですか。 ダニキチは名古屋大学法科大学院から途中で八重の桜法科大学院に編入試験を受けて合格して移りました」 和尚が言った。 「すべては御仏(みほとけ)のご縁の仕業です」 若林津吉が言った。 「私が余興に歌を歌います」 夏がくれば 思い出す はるかな尾瀬(おぜ) 遠い空 霧のなかに うかびくる やさしい影 野の小径(こみち) 水芭蕉(みずばしょう)の花が 咲いている 夢見て咲いている水のほとり 石楠花(しゃくなげ)色に たそがれる はるかな尾瀬 遠い空 夏がくれば 思い出す はるかな尾瀬 野の旅よ 花のなかに そよそよと ゆれゆれる 浮き島よ 水芭蕉の花が 匂っている 夢みて匂っている水のほとり まなこつぶれば なつかしい はるかな尾瀬 遠い空 https://m.youtube.com/watch?v=zFovc95Pzio 神様は雲の上から望遠鏡でダニキチのお弔いを見ていたがやがて望遠鏡を置くと静かに奥へと下がって行かれた。 5怒りの日 それから一年が経った。 若林津吉はカトリックの大聖堂の前に立っていた。 彼は曹洞宗の信徒であった。 急にカトリックに帰依した訳ではなく、今日ここに神様が降臨すると聞いたのでやって来たのである。 回りにはまばらに信徒たちが祈りを捧げていた。 不意に神様がその尊い姿を現した。 信徒たちはひれ伏して、その場に面を伏せた。 しかし、若林津吉はそんなまねはしなかった。 いきなり前に進み出ると言った。 「神様、あなたをダニキチ殺しで逮捕します」 神様は言われた。 「よく調べたな。私がダニキチを殺したと言うことを」 若林津吉は言った。 「ダニキチが亡くなる前日にダニキチの事務所を窓からのぞいていたとかげを見つけて話を聞いたのです」 神様は言われた。 「口の軽いやつだ」 若林津吉は言った。 「とかげは自分が密告したことでダニキチが殺されたことを悔やんでいました」 神様は言われた。 「私はダニキチに罰を与えたたけだ」 若林津吉は言った。 「ダニキチが事務所の机の引き出しに鍵をかけて、時々そこから松下奈緒のうちわを出して眺めていることがそんなにも悪いことなのでしょうか」 神様は言われた。 「契約は履行されなければならない。ダニキチは私との約束を破ったのだ」 若林津吉は言った。 「pacta sunt servanda (パクタ・スント・セルウァンダ)、「合意は守られなければならない」ですね」 神様は言われた。 「おや、知っていたのか。ラテン語を」 若林津吉は言った。 「私はかつて大学で法学部にいました。国際法の原則としてその言葉を習いました。 条約法に関するウィーン条約の前文にはそのラテン語の字句が引用されています」 神様は言われた。 「君は刑事になどならずに外交官になればよかったのだ」 若林津吉は言った。 「ニコルソンはその『外交』という本の中でいっています。外交官とは国のために嘘を言うために派遣される、と」 神様は言われた。 「刑事は嘘をつかずに済むと言うわけか」 若林津吉は言った。 「神様、あなたを逮捕します」 神様は言われた。 「それは不可能だ。私は牢獄に入れられても壁を通り抜けられるし、手錠もするりと抜けてしまう」 若林津吉は言った。 「では、こうします」 若林津吉は拳銃を抜き出すと神様に向けて撃った。 弾丸は神様の体を通り抜けて、大聖堂の扉に当たり、弾けた。 神様は言われた。 「あの扉はマホガニーでできている。芸術的な価値が高い。君は大聖堂に傷をつけた罪で告発されるだろう」 若林津吉は言った。 「あなたはダニキチの命を奪ったことを後悔していないのですか」 神様は言われた。 「私は世の中の秩序を守っただけだ」 若林津吉は神様に向けて再び銃の引き金を引いた。 神様は空に向かって飛んで行かれた。 後に取り残された若林津吉は空に向かって銃を向けたが、やがてあきらめた。 https://m.youtube.com/watch?v=Glim_Q2Ni2A 6カローラⅡに乗って 若林津吉は大聖堂の前で二発の拳銃を撃ち、マホガニーの扉に傷をつけたことで監察の対象となった。 若林津吉は拳銃を発砲した理由を口を閉ざして語らなかった。 監察は若林津吉を懲戒免職にしようとしたが、同僚の刑事釘抜京子が証言に立った。 「若林津吉巡査長は意味もなく拳銃を発砲するような人間ではありません。きっと訳があったのです」 釘抜京子の父親は交番の警察官として拳銃強盗の少年と格闘し命を落としていた。 釘抜京子自身も若くして警部補となった県警の輝く星であった。 釘抜京子がかばったことで若林津吉は懲戒免職を免れた。 その代わり若林津吉は刑事の職を解かれ、免許センターに配属されることになった。 県警の仕事では拘置所の係と免許センターの仕事が出世の行き止まりとして意識されていた。 ここに配属された警察官は以後、刑事として復活することはあり得ない。 けれども、若林津吉は警察官をやめることはせずに、ありがたくその辞令を受けることにした。 若林津吉はすでに43歳であった。 民間に出てもろくな仕事は見つからないだろう。 若林津吉には妻と中学三年生になる息子と小学六年生になる娘がいた。 若林津吉が免許センターに赴任するために小田原警察署を離れる日に、警察署の前に手の空いている警察官たちが集まった。 釘抜京子が代表して若林津吉に白い百合の花束を渡した。 「若林刑事から教えられたことを私たちはけして忘れません」 若林津吉は言った。 「何か俺が教えたかな」 釘抜京子は言った。 「捜査に無駄なことなど一つもない、と」 若林津吉は言った。 「皆さん、さようなら 私の行くところは、ここのやうに明るい楽しいところではありません。 けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません」 若林津吉が白い車に乗ってエンジンをかけるとみんなは手を振ってそれを見送った。 カローラⅡにのって 買いものに でかけたら サイフないのに 気づいて そのままドライブ 彼を迎えにでかけて もう1時間 待ちぼうけ カローラⅡはその時 私の図書館 信号待ちで並んだ 同じカローラⅡは 幼なじみの彼が 彼女とドライブ こんど 友達を誘って 遠い町まで行こう 口笛を吹きながら カローラⅡでドライブ 日ようび カローラⅡにのって パーティに でかけよう お酒のめない あなたは わたしのドライバー あした きみのカローラⅡで ぼくの家まで おいで カローラⅡにのって どこまでも 行きたいな ずっと ずっと どこまでも 道はつづくよ ※カローラⅡにのって ラララララララ ラララ ラララララララ ラララ ラララララララ ラ※ (※くり返し) ラララララララ ラララ ラララララララ ラララ… https://m.youtube.com/watch?v=CD0AIFQ76EM 参考文献 「気のいい火山弾」https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4440_7303.html 7かなえられた祈り それから17年が経った。 当時30歳だった釘抜京子は47歳となった。 彼女は巡査、巡査長、警部補、警部、警視と順調に出世を重ねていた。 高校を卒業して警察官になった人間がたどり着ける最高の位である警視正が手に届くところまで来ていた。 警視正になれば、大都市の警察署長、たとえば東京であれば目白警察署の署長になれた。 そして、さらに県警本部長も視野に入ってくるのであった。 けれども、釘抜京子はけしてあせらなかった。 かつて同僚の刑事若林津吉に言われた「捜査に無駄なことなど一つもない」を心の銘として刻んでいた。 幸い、32歳の時に良縁を得て、植木職の男性と結婚し、美しい二人の娘を授かっていた。 上が14歳、下が12歳、名前を杏と希と言った。 植木職の夫は妻が警察で昇任することを喜んでいた。 自らは謹厳な職人として、地道に生きていた。 ところで、47歳になった釘抜京子は警察署の署長に任命されることになった。 その県で初めての女性の警察署長として、マスコミの注目を浴びることは確実であった。 釘抜京子は辞令を受けるに当たって、上層部にお願い事をした。 「お願いがあります」 上層部の人は言った。 「かなえられる望みならばかなえてあげよう」 釘抜京子は言った。 「かつて大聖堂に二発の弾丸を撃ち込み、懲戒の対象となった若林津吉巡査長を私の部下につけてください」 上層部の人は沈黙した。 やがて言った。 「彼はまだ免許センターにいる。地下室で廃棄になった免許証をシュレッダーで裁断する係をしている。 懲戒になった警察官がどんな目に遭うか見せしめのために」 釘抜京子は言った。 「知っています。彼はもう定年まで一年を残すのみです。もう一度彼を刑事に戻してあげたいのです」 釘抜京子の望みはかなえられた。 警察署長室で二人は再会した。 釘抜京子は言った。 「お久しぶりです。 若林刑事」 若林津吉は言った。 「何年ぶりかな」 釘抜京子は言った。 「17年です」 若林津吉は言った。 「お互い生きて再会できるとは思っていなかった」 釘抜京子は言った。 「あと、一年あります。刑事として最後の花道を飾ってください」 若林津吉は言った。 「俺にできるかな」 釘抜京子は言った。 「必ずできます」 若林津吉は大きな涙を目からこぼした。 https://m.youtube.com/watch?v=yUwvIFYcCqo 8ジュピター それから一年が過ぎた。 若林津吉は釘抜京子署長のもとで大過なく刑事として任務をこなした。 あまつさえ、ひったくり犯人をタックルして捕まえ、県警本部長賞をいただいた。 これは東京であれば警視総監賞に当たるものである。 なお、伝説の刑事平塚八兵衛は94回も警視総監賞を受賞している。 ウィキペディアには次のように書かれている。 退職から4年後の1979年、平塚は 膵臓癌 のため没した。享年66。逮捕した被疑者は極刑に処せられた者も多かったが、結局、帝銀事件の死刑囚である 平沢貞通 より先に鬼籍に入った。 巡査 から 巡査部長 ・ 警部補 ・ 警部 ・ 警視 とすべて無試験で昇任している。平塚はまた、退職までに警視総監賞を94回受賞したのをはじめとして、帝銀事件で 警察功労章 を、吉展ちゃん誘拐殺人事件で 警察功績章 をそれぞれ受章している。なお、警察在職中に両章を受章しているのは平塚だけであるという言説が度々なされるが、これは誤りで、それ以前にも両章の受章者は存在している。 若林津吉は一度きりの県警本部長賞を喜んで受け取った。 そして、定年に達した年の春に警察を退職した。 退職の日の午後、警察署の前に手の空いた警察官が全員集まった。 若い婦人警察官が若林津吉に白い薔薇の花束を渡した。 釘抜京子は言った。 「若林刑事は交番相談員に就任するお話を断られたそうですね」 交番相談員とは優秀な警察官退職者を交番に配置して地域の安全と平和を守る役目である。 少額ながら手当ても出る。 そのため、年金が支給されるまでの間、生活費に充てるために就任を希望する人間が多いのである。 若林津吉は言った。 「年老いた人間が組織に迷惑をかけるわけにはいきません。 老兵は死なず。ただ消え去るのみです」 若林津吉はマッカーサーの言葉を引用して答えた。 マッカーサーはその退官に際して次のように述べたのである。 「... but I still remember the refrain of one of the most popular barrack ballads of that day which proclaimed most proudly that "old soldiers never die; they just fade away." And like the old soldier of that ballad, I now close my military career and just fade away, an old soldier who tried to do his duty as God gave him the light to see that duty. しかし、当時兵営で最も人気が高かったバラードの一節を今でも覚えています。それは誇り高く、こう歌い上げています。「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」と。そしてこのバラードの老兵のように、私もいま、私の軍歴を閉じ、消え去ります。神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老兵として 。」 https://m.youtube.com/watch?v=Tuagi9kZe8A 最後に若林津吉は言った。 「では、皆さん、お元気で」 不意に釘抜京子が言った。 「若林巡査長殿に敬礼」 https://m.youtube.com/watch?v=AXm2-SMGQi8 その場にいた全員が若林津吉に敬礼した。 若林津吉も敬礼した。 そして、照れ臭そうに笑うとゆっくりと警察署の門を出ていった。 Every day I listen to my heart ひとりじゃない 深い胸の奥で つながってる 果てしない時を越えて 輝く星が 出会えた奇跡 教えてくれる Every day I listen to my heart ひとりじゃない このそらの御胸に 抱かれて 私のこの両手で 何ができるの? 痛みに触れさせて そっと目を閉じて 夢を失うよりも 悲しいことは 自分を信じてあげられないこと 愛を学ぶために 孤独があるなら 意味のないことなど 起こりはしない 心のしじまに 耳を澄まして 私を呼んだなら どこへでも行くわ あなたのその涙 私のものに 今は自分を 抱きしめて 命のぬくもり 感じて 私たちは誰も ひとりじゃない https://m.youtube.com/watch?v=BvV4WxnxFOU 9人間の証明 それから13年が経った。 若林津吉は小田原市長になっていた。 若林津吉自身に政治的な野心はなかった。 しかし、警察を退職して以降、地域の子供たちのために学校の行き帰りを旗を持って見守るおじさんとして若林津吉のことを知らないものはいなかった。 回りに地域の防犯を守るために市長になってほしいと頼まれて若林津吉は立ち上がった。 敵は保守政党の六選を重ねた男であった。 金満選挙に対抗して自転車で近隣を回る若林津吉は僅差で当選した。 その後、警察官として培った防犯対策を市に施し、小田原市は日本一防犯意識の高い町として日本のモデル都市になった。 こうして一期目を見事に終えた若林津吉は二期目も当選した。 二期目に入った若林津吉が早速行ったことはダニキチの慰霊碑を作ることであった。 ダニキチ殺人事件は発生から30年が経ち、すでに風化していた。 ダニキチの事務所のあった場所は廃屋となり、地元でも有名な廃墟となっていた。 心霊スポットとして、地元の不良が肝だめしに使う場所でもあった。 「これではいけない」 若林津吉は市議会に諮り、ダニキチの事務所の廃墟を買収し更地にした。 さらに、そこに美しい薔薇を植えた。 そして、最後にダニキチの慰霊碑を御影石で建てることにしたのである。 全国から意匠を募集したところ、紫陽花の花の上に止まってダニキチの事務所を覗きこんでいるとかげの姿が選ばれた。 ダニキチ殺人事件は、謎の怪事件として小説化されていた。 とかげがダニキチの事務所を覗いた翌日に事件が起きたことはよく知られていた。 除幕式には神奈川県警本部長になっていた釘抜京子が参列し、幕を取った。 除幕式で挨拶に立った若林津吉は言った。 「ダニキチ殺人事件は誠に特異な事件でその真相はいまだに明らかになっていません。 私の警察官人生の中でもターニングポイントとなった事件でもありました。 けれども、そうしたいきさつを抜きにしてもダニキチ殺人事件のような悲劇を二度と起こしてはなりません。 慰霊碑を見るたびに皆さんがその事を思い出してくれるようこの碑(いしぶみ)を建てました」 みんなは拍手した。 式が終わると腰の曲がった老婆が若林津吉に近づいて来た。 「お久しぶりです。若林刑事」 ダニキチの年老いた母親よしえであった。 若林津吉は言った。 「生きておられたのですか」 よしえは言った。 「はい、103歳になります」 傍らに立っていた釘抜京子が言った。 「お達者で何よりです」 よしえは言った。 「あなたは県警本部長になられたのですね。ご出世おめでとうございます」 釘抜京子は言った。 「私の父は拳銃強盗の少年によって命を奪われました。父が見守っていてくれたのですわ」 若林津吉は言った。 「ダニキチさんも生きていたら大した仕事を成し遂げていたでしょう」 よしえは言った。 「死んだ子の年を数えるようなことを言ってはいけませんわ。 生者は死者の為に煩わさるべからず、と梅原龍三郎も言っています」 若林津吉は尋ねた。 「それがよいですね」 よしえは携えていたバッグから一枚のうちわを出した。 「それは何ですか」 釘抜京子が尋ねた。 「ダニキチの事務所にあった松下奈緒のうちわです。慰霊碑ができると聞いたので捧げようと持ってきました」 よしえはうちわを碑の前に置いた。 その時不意に風が吹いてうちわは飛ばされてどこかに消えた。 Mama, Do you remember the old straw hat you gave to me I lost the hat long ago, flew to the foggy canyon Wow Mama, I wonder what happened to that old straw hat Falling down the mountain side, out of my reach like your heart Suddenly the wind came up Stealing my hat from me yeh Swirling whirling gusts of wind Blowing it higher away Mama, that old straw hat was the only one I really loved But we lost it, no one could bring it back Like the life you gave me Suddenly the wind came up Stealing my hat from me yeh Swirling whirling gusts of wind Blowing it higher away Mama, that old straw hat was the only one I really loved But we lost it, no one could bring it back Like the life you gave me Like the life you gave me https://m.youtube.com/watch?v=j8uklD3_ywA 10ひだまりの詩 ある日、若林津吉が市長の執務室で書類に判子を捺していると神様とダニキチが現れた。 神様は言われた。 「市長としてよくやっているようだな」 ダニキチも言った。 「僕のために慰霊碑を建ててくださってありがとうございます」 若林津吉は言った。 「私は天国に召されるのですか」 神様は言われた。 「察しがいいな、さすが刑事だ」 ダニキチも言った。 「これまでご苦労さまでした」 ダニキチは小柄で銀縁の丸い縁の眼鏡をかけていた。 若林津吉はダニキチと会うのはこれが初めてだった。 若林津吉は言った。 「天国はどんなところですか」 神様は言われた。 「行けばわかるさ」 ダニキチは言った。 「美しい音楽が流れ、苦しみはなく、爽やかな風が吹いているところです」 若林津吉は尋ねた。 「ダニキチさんは神様に命を奪われて悔しくはないのですか」 ダニキチは言った。 「もともと僕は病弱でいつ死んでもおかしくありませんでした。 石原さとみさんがディアシスターで演じた免疫系の病気を患っていました。 いつ死んでもおかしくなかったのです。 それに僕は神様との約束を破って松下奈緒グッズを全部捨てずに一個だけ隠していました。 約束を守らなかったのですから罰を受けて当然です」 神様は言われた。 「さあ、行こう」 若林津吉は言った。 「わかりました」 お昼になり、昼食の鴨南蛮を持ってきた出前の蕎麦屋の親父が倒れている市長を見つけた。 あわてて抱き起こしたが、すでに息はなかった。 逢えなくなって どれくらいたつのでしょう 出した手紙も 今朝ポストに舞い戻った 窓辺に揺れる 目を覚ました若葉のよに 長い冬を越え 今ごろ気づくなんて どんなに言葉にしても足りないくらい あなた愛してくれた すべて包んでくれた まるで ひだまりでした 菜の花燃える 二人最後のフォトグラフ "送るからね"と約束はたせないけれど もしも今なら 優しさもひたむきさも 両手にたばねて 届けられたのに それぞれ別々の人 好きになっても あなた残してくれた すべて忘れないで 誰かを愛せるように 広い空の下 二度と逢えなくても生きてゆくの こんな私のこと心から あなた愛してくれた 全て包んでくれた まるで ひだまりでした あなた愛してくれた 全て包んでくれた それは ひだまりでした https://m.youtube.com/watch?v=WbYbMgIAb20 11 優しさにつつまれたなら 若林津吉の死因は心筋梗塞であった。 日本人の死亡原因の第2位を占める心臓病。 その約半数が、 冠動脈の内腔が狭くなることで起こる「心筋梗塞」や「狭心症」などが原因です。 治療法が進歩しているにもかかわらず、急性心筋梗塞では、約30%の人が死亡しており、その多くは発症後短時間の死亡で、命にかかわる病気の1つといえます。心筋梗塞は多くの場合、 その前段階である狭心症の段階で治療すれば、 防ぐことが可能です。 心臓病による死亡の内訳 心筋梗塞は冠動脈が詰まり、 血液の流れが途絶える病気です。 心臓は、血液を全身に送る“ポンプ”の働きをしています。ポンプとして働くために、心臓の筋肉(心筋)自身も、酸素や栄養を必要とします。その血液を供給するのが、心臓を取り囲むように広がっている「冠動脈」と呼ばれる血管です。この冠動脈で、血管壁が硬くなる「動脈硬化」が進んだりして、血管の内腔が狭くなるのが「狭心症」、完全に詰まるのが「心筋梗塞」です。 冠動脈に動脈硬化が起こると 動脈硬化(アテローム性動脈硬化)とは、血液中のLDLコレステロール(悪玉コレステロール)などが血管壁にたまり、いくつかの過程を経て、プラークというこぶをつくることです。 長い引用になったが、許してほしい。 ところで、小田原市長のあとを継いだのは、釘抜京子であった。 若林津吉の推し進めた防犯都市としての小田原を引き継ぐと訴えて当選した。 釘抜京子の娘、杏と希はそれぞれ24歳と22歳になり、杏はバイオリニスト、希はピアニストなって世界を演奏旅行に歩き、ほとんど家に帰ることはなかった。 釘抜京子は植木職の旦那様と共に小田原で暮らしていた。 ある日、植木職の夫が台風で倒れそうな御神木を見守りに行くと、御神木が倒れて下敷きになって死んだ。 68歳であった。 釘抜京子は62歳であった。 夫に先立たれた釘抜京子は市長の仕事に没頭することでようやく悲しみをまぎらわした。 そして、釘抜京子が新しい仕事として選んだのが松下奈緒グッズ記念館であった。 釘抜京子はダニキチの慰霊碑の横に隈研吾の設計になる松下奈緒グッズ記念館を建てることを市議会に提案した。 隈研吾さんの設計にしたのは、とても美しく荘重な雰囲気が松下奈緒さんにふさわしいと考えたからである。 幸い市議会もそれを認め、総工費20億円で松下奈緒グッズ記念館は完成した。 中に収める松下奈緒グッズは全国の松下奈緒ファンからの寄付を募ることにした。 すると瞬く間に2500点が集まった。 除幕式に現れたのは115歳になったダニキチの母親よしえであった。 よしえはみんなに挨拶した。 「私の息子のダニキチは高校野球と松下奈緒が好きでした。 皆さんの厚意でこのような美しい建物ができたことを誇りに思います」 みんなは拍手した。 不意によしえが歌い始めた。 小さい頃は神さまがいて 不思議に夢をかなえてくれた やさしい気持で目覚めた朝は おとなになっても 奇蹟はおこるよ カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の やさしさに包まれたなら きっと 目にうつる全てのことは メッセージ 小さい頃は神さまがいて 毎日愛を届けてくれた 心の奥にしまい忘れた 大切な箱 ひらくときは今 雨上がりの庭で くちなしの香りの やさしさに包まれたなら きっと 目にうつる全てのことは メッセージ カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の やさしさに包まれたなら きっと 目にうつる全てのことは メッセージ https://m.youtube.com/watch?v=N-uCT3jGEMs 12翳りゆく部屋 松下奈緒グッズ記念館は大成功を収めた。 松下奈緒グッズ記念館は小田原の名所として全国の松下奈緒ファンの聖地となった。 コロナウィルスの蔓延を防ぐために一日百人、予約制にしたのだが、定休日を週に一回設けてもその来館者は年間30000人に及んだ。 等身大のダニキチの蝋人形を飾るとさらに人気が沸騰した。 ダニキチの年老いた母親のよしえは松下奈緒グッズ記念館の名誉会長として月に一度ほど松下奈緒グッズ記念館を訪れ、来館者を見て目を細めた。 ある日、よしえが自宅でうとうとまどろんでいると神様とダニキチが現れた。 よしえは言った。 「よくおいでくださいました神様。ダニキチも久しぶりだね」 神様は言われた。 「あなたを天国に連れていくために来ました」 ダニキチも言った。 「僕と一緒に天国で暮らしましょう」 よしえは言った。 「私はもう思い残すことはありません」 神様は言われた。 「もし人生に悔いがあるとしたら何ですか」 よしえは言った。 「私は夫が大金持ちだったので豪邸に住みましたが、豪邸は大きくて掃除が大変でした。 今度生まれ変わったら小さな家に住みたいと思います」 ダニキチは言った。 「父さんは僕が大切な手術の日にゴルフの会員権を500万円で買いに行ったことがあったね」 よしえは言った。 「そんなこともあったわね」 神様は言われた。 「さあ、行きましょう」 ダニキチはよしえの手を取った。 そして、天国へのはしごをゆっくりと昇って行った。 窓辺に置いた 椅子にもたれ あなたは 夕陽見てた なげやりな 別れの気配を 横顔に ただよわせ 二人の言葉は あてもなく 過ぎた日々を さまよう 振り向けば ドアの隙間から 宵闇が しのび込む どんな運命が 愛を遠ざけたの 輝きは もどらない わたしが 今 死んでも ランプを灯せば 街は沈み 窓には 部屋が映る 冷たい壁に 耳をあてて 靴音を 追いかけた どんな運命が 愛を遠ざけたの 輝きは もどらない わたしが 今 死んでも どんな運命が 愛を遠ざけたの 輝きは もどらない わたしが 今 死んでも https://m.youtube.com/watch?v=aQFprqwui1M 13エピローグ 私の前にある鍋とお釜と燃える火と 天国に行ったダニキチの母親よしえは、天国に一戸建ての家を与えられた。 三階建てで三階の和室は夫の一郎が泊まりに来てもいいようにと客室にした。 二階はダニキチの部屋でここにはダニキチの本棚と机と蛍光灯スタンドが置かれた。 洋間だったので、ダニキチは布団を床に直に敷いて寝ることにした。 一階はよしえの部屋と台所とトイレと玄関とお風呂があった。 よしえは読書家で特に石垣りんの詩が好きだった。 私の前にある鍋とお釜と燃える火と 石垣りん それは長い間 私たち女のまえに いつも置かれてあったもの、 自分の力にかなう ほどよい大きさの鍋や お米がぷつぷつとふくらんで 光り出すに都合のいい釜や 却初からうけつがれた火のほてりの前には 母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。 その人たちは どれほどの愛や誠実の分量を これらの器物にそそぎ入れたことだろう、 ある時はそれが赤いにんじんだったり くろい昆布だったり たたきつぶされた魚だったり 台所では いつも正確に朝昼晩への用意がなされ 用意のまえにはいつも幾たりかの あたたかい膝や手が並んでいた。 ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて どうして女がいそいそと炊事など 繰り返せたろう? それはたゆみないいつくしみ 無意識なまでに日常化した奉仕の姿。 炊事が奇しくも分けられた 女の役目であったのは 不幸なこととは思われない、 そのために知識や、世間での地位が たちおくれたとしても おそくはない 私たちの前にあるものは 鍋とお釜と、燃える火と それらなつかしい器物の前で お芋や、肉を料理するように 深い思いをこめて 政治や経済や文学も勉強しよう、 それはおごりや栄達のためでなく、 全部が 人間のために供せられるように 全部が愛情の対象あって励むように。 だから、書棚には石垣りんの詩集が備えられていた。 また、よしえは茨木のり子の詩も好んだ。 六月 茨木のり子  どこかに美しい村はないか  一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒  鍬を立てかけ 籠を置き  男も女も大きなジョッキをかたむける  どこかに美しい街はないか  食べられる実をつけた街路樹が  どこまでも続き すみれいろした夕暮れは  若者のやさしいさざめきで満ち満ちる  どこかに美しい人と人との力はないか  同じ時代をともに生きる  したしさとおかしさとそうして怒りが  鋭い力となって たちあらわれる よしえは、毎日ダニキチのために料理に腕を振るい、家の中をきちんと整えた。 そして、天国の町をダニキチと共に散歩した。 よしえはダニキチに言った。 「現世(うつしよ)の苦労などは、ここに来ることを考えればどんなことにも耐えられますね」 ダニキチは言った。 「或云(あるひといわく)、比叡(ひえ)の御社(おんやしろ)に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師(じゅうぜんじ)の御前(おんまえ)にて、夜(よ)うち深(ふ)け、人(ひと)しづまりて後(のち)、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声(こえ)にて、とてもかくても候(そうろう)、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問(と)はれて云(いわく)、生死無常(せいしむじょう)の有様(ありさま)を思(おも)ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給(たま)へと申(もう)すなり。云々(うんぬん)。」 よしえが尋ねた。 「どんな意味かしら」 ダニキチは言った。 「この世のことはどうでもよい、ただ後の世のことをお助け下さいと祈った女の話です。小林秀雄の『無常といふ事』に出てきます」 よしえは言った。 「ダニキチはよく勉強しているわね。偉いわ」 ダニキチは言った。 「これからは勉強だけではなく、親孝行もいたします」 https://m.youtube.com/watch?v=9z6R7OoMK6Y https://m.youtube.com/watch?v=Z5grURyEHKc 14孤独のマラソンランナー こうして日月(じつげつ)は過ぎた。 ダニキチは母親と睦まじく暮らし、時々父親の一郎がやって来て三階の和室に泊まり、パソコンで株の売買をした。 こうした時はダニキチは気詰まりであったが、仕方がないと我慢を重ねた。 また、ダニキチの母のよしえはトヨタのコルサという車を手に入れて、天国の道を疾駆した。 コルサは室内が広く、かつて「広さのコルサ」というキャッチフレーズで一世を風靡(ふうび)した車である。 ダニキチは幼い頃に母親が真っ赤なコルサに乗って自分を保育園に送り届けてくれたことを懐かしく思い出した。 今度のコルサも赤であった。 ある日、天国の執政庁にダニキチが呼ばれた。 ダニキチはおっとり刀で出かけた。 すると神様は言われた。 「ダニキチよ、久しぶりだな」 ダニキチは言った。 「お陰さまで長くこちらで暮らしております」 神様は言われた。 「お前にもう一度チャンスを与えよう」 ダニキチは尋ねた。 「どのようなチャンスをくださるのですか」 神様は言われた。 「もう一度地上に戻り、やり直すチャンスだ」 ダニキチは尋ねた。 「いつ頃からやり直すのですか」 神様は言われた。 「五度目の司法試験にようやく合格した辺りからだ」 ダニキチは言った。 「僕は現在のお母さんとの暮らしに満足しています」 神様は言われた。 「今すぐ決断する必要はない。しばらく考えてみなさい」 ダニキチは来たときとは違って重い足取りで家に帰った。 すると母のよしえはそんなダニキチの態度に不審を覚えたのか言った。 「ダニキチ、お前は腹の中にサナダムシがいるのじゃないかい、何だか顔色が悪いよ」 ダニキチは言った。 「お母さん、天国にサナダムシはいません。実は神様にもう一度下界に戻りやり直してみないかと言われたのです」 よしえは言った。 「それはよかったじゃないか」 ダニキチは言った。 「僕はここでお母さんに親孝行をしてのんびり暮らしていくことで十分満足しています」 すると、よしえはダニキチの頬を平手で張った。 「パチン」 ダニキチは言った。 「お母さん、何をするんですか」 よしえは言った。 「そんな弱虫にお前を育てた覚えはないよ。せっかく神様がチャンスをくださるのだからもう一度人生をやり直してみなさい」 ダニキチはそれで目が覚めた。 「お母さん、僕は間違っていました。これから天国の執政庁の神様のもとに行き、もう一度人生をやり直したいと神様に申し出て来ます」 よしえは言った。 「それがいい、私のことなど気にかける必要はない。自分のやりたいことを精一杯やりなさい」 ダニキチは母親に手を振ると執政庁まで歩いて行った。 すると神様が門の前に立っていた。 「やる気が出たらしいな」 ダニキチは言った。 「はい、今度生まれ変わったら、悔いのないように頑張ります」 神様は言われた。 「生まれ変わったら、お前は一度死んだことも、天国での記憶も、一切を失う」 ダニキチは言った。 「わかりました」 神様が杖をひとふりするとダニキチは天国からまっ逆さまに地上へと落ちて行った。 ダニキチが目を覚ますとそこは八重の桜法科大学院の庭のベンチシートであった。 庭師のおじさんが言った。 「そんなところで眠っていると風邪を引くぞ」 ダニキチは言った。 「すいません、前日の勉強の疲れが出てしまったのでしょう」 ダニキチは八重の桜法科大学院の門を出ると自転車に乗って家まで帰ることにした。 若者が走るよ、街のビルの谷間を 若者の足どりは、風を切ってゆくよ みんなが声をかける、「おはようさん」君よと 近所の子供たちも、「どこへ行くの」と聞く わき目もふらずに、前だけを見つめて 若者が駆けて行く、振り向きもしないで 自転車が走ってく、自動車が追いかける 機関車が横切るよ、飛行機がかすめる 長い髪の女の子、花束をホラかざして 野原へ出かけましょうと、肩をたたいて行く わき目もふらずに、前だけを見つめて 若者が駆けて行く、振り向きもしないで やがて彼は海に出る、裸足になって走ろう かもめが飛んでいるよ、汽笛もむせんでる わき目もふらずに、前だけを見つめて 若者が駆けて行く、振り向きもしないで 若者はふと立ち止まり、青空を見上げて 出逢った人や花を、思い出してみるの いつまでも僕は、走り続けるの 若者はまた走り出す、振り向きもしないで https://m.youtube.com/watch?v=_p9PkZC9-uQ おしまい 音楽小説を書きました いかがですか 電光と雷鳴 エピーソード0 ダニキチファンクラブ ダニキチは南山大学に来ていた。 ダニキチは南山大学に来るのは初めてである。 南山大学と名古屋大学には単位互換制度があり、そのために来たのだが、あまり気に入った授業がないので、仕方なくベンチでお弁当を食べることにした。 お弁当の中身はカツカレーである。 福神漬けがついていたのでおいしくいただいた。 すると、ダニキチの傍らに美しい女子大学生が来て言った。 「あなた、名古屋大学法科大学院のダニキチだよね」 ダニキチは驚いた。 けれども間違いではないので言った。 「確かに僕はダニキチだけど。君は誰だい」 その美しい女子大学生は言った。 「あなたのファンクラブの会員だよ」 ダニキチは意味がわからなかったので黙った。 すると美しい女子大学生は言った。 「私は南山大学法科大学院一年渡辺がらん。 ダニキチファンクラブ会員番号13番」 ダニキチは尋ねた。 「ダニキチファンクラブって何ですか」 渡辺がらんは言った。 「ダニキチ情報を共有して楽しむの」 ダニキチは尋ねた。 「何人いるんですか」 渡辺がらんは言った。 「43人かな」 ダニキチはさらに尋ねた。 「僕の誕生日を知っていますか」 渡辺がらんは言った。 「12月3日だよね」 確かにその通りだった。 ダニキチはさらに尋ねてみた。 「僕の趣味を知ってますか」 渡辺がらんは言った。 「おしっこを我慢している女性の顔を見ること」 ダニキチは言った。 「驚いたな」 渡辺がらんは言った。 「仙台育英高校では宮城野校舎の生徒会長で生徒代表としていろいろなところに行った」 ダニキチは言った。 「その通りだ」 渡辺がらんは言った。 「修学旅行の時には生徒代表として宿泊先の旅館の人に、到着時と、帰るときにあいさつをした」 ダニキチは言った。 「懐かしいなあ」 渡辺がらんはさらに言った。 「日本史に興味があり、京都の国宝を巡りたかったんだけど、大阪で遊びたいという意見に多数決で負けて大阪に行った」 ダニキチは言った。 「本場のたこ焼きを食べたんだけど、 家で買ってくる冷凍のたこ焼きとの違いがわからなかった」 「あはは」 渡辺がらんは笑った。 ダニキチはさらに尋ねた。 「他に何か知ってるかい」 渡辺がらんは言った。 「中学校の修学旅行は血圧が安定せず、旅行先でなんかあったら困るとい うことで、ドクターストップで行けなかった」 ダニキチは言った。 「あの時は泣きそうになった」 渡辺がらんは言った。 「野球部の応援に甲子園にも行た、 甲子園ってテレビで見ているよりもとても大きいのでびっくりした」 ダニキチ「あの時はバスで行ったんだ」 渡辺がらんは言った。 「多賀城の応援団長が一切を仕切ったのでこの時はダニキチの出番はなかったんだよね」 ダニキチは言った。 「そうそう、 元来高校野球ファンなので、テンションが 上がりまくってしまい、先生方から落ち着 けと言われたっけ」 渡辺がらんは言った。 「先輩の卒業式では泣いたんだよね」 ダニキチは言った。 「別に僕が卒業するわけではないんだけど、1年生の時にいろいろ学校内を2年生が案内する制度があって、いろいろ詳しく教えていただ いた先輩が卒業するということで勝手に泣いてしまった」 渡辺がらんは言った。 「仙台育英の入試の試験監督もやったんだよね」 ダニキチは言った。 「うん、報酬はなかったけど、試験委員同士で食べたお弁当はおいしかった」 渡辺がらんは言った。 「松下奈緒のファンだけどサインはまだ持ってない」 ダニキチは言った。 「もらうタイミングがわからないんだ」 渡辺がらんは言った。 「さあ、行こう」 ダニキチは尋ねた。 「どこに行くの」 渡辺がらんは言った。 「ダニキチファンクラブだよ。みんなあなたを待ってる」 ダニキチは尋ねた。 「どこにあるの」 「南山大学の学生会館だよ、さあ、行こう」 二人は手をつないでダニキチファンクラブへと歩き始めた。 その時、急に寒気がして、ダニキチはくしゃみをして目をさました。 カツカレーでお腹がくちくなったせいか、ベンチで眠ってしまったのであった。 ダニキチは言った。 「夢だったのか」 おしまい 渡辺がらん(全) https://write.as/k8lvv5nes3vr1 電光と雷鳴(全) https://write.as/6o9pnx6ugmuw3 補足 この作品は別としても 電光と雷鳴の本編 https://write.as/6o9pnx6ugmuw3 は感動的だ 第14章「孤独のマラソンランナー」を読みましたか 共感した 岡山のソヘイルナセリ さん 画像をアップロード 答える あと全角4000文字 シェア ツイート はてブ 回答 1〜2件/2件中 並び替え:回答日時の 新しい順 | 古い順 dan******** さん 2020/7/15 12:28:09 違反報告 とてもよく書けていると思います。 楽しく読めました。