下川友

about

好きなことをやろうと思って、たとえば音楽とか文章とかに向かう。 でもそれだって、純粋に好きだからというより、「仕事をしたくない」という前提がどこかにあると、コンテンツそのものをちゃんと楽しめていない感覚が残って、その行動さえも少し萎えてしまう。

友達に漫才をやってみないかとお願いして、何日か試してみたものの、漫才だって結局は商業的なものだし、これ本当に楽しめてるのか?と疑心暗鬼にもなる。 そんなことを考えても進めるしかないだろ、と元気な自分がそれらのマイナスを強引にシャットアウトする。

それでも音楽に携わることは、確信とまではいかないが、一番心に優しい選択なのではないかと感じている。 今もBandcampでベースミュージックやアンビエントを漁っていると、昔、少し髪が長かった頃の自分が憑依してくるようで、体が少し軽くなる。

バーとか、喫茶店とか、古着屋とか。 そういう目と体に優しい仕事もやってみたいが、技術屋見習いの自分にとってはかなり遠い場所にある。 今いる位置からそこへ身を運ぶには、距離がありすぎる。 どこから手を付けていいのか分からない。

自分は、ないものをあるように存在させることに、無意識的にも意図的にも強く惹かれている。 そこにギラついた憧れがある。 けれど同時に、実際に存在している点々とした人や土地、手で触れられる物理的なものに一度屈してでも、まずはそこへアクセスすべきなのだとも思う。

たとえ今は、手で文章を書くことくらいしかできなくても。 似たような文章を何度も書いて外にさらし、それ、いつまで言ってるの?と思われたとしても、少しでも前に進んでいると信じて続けるしかない。

こうして現実的なことを文章にしていること自体が、現実を保留しているだけなのか、それとも単なる逃げなのか。 そんなことを考えながら、そろそろ始まるGWの予定を確認する。

GWは横須賀に墓参りに行き、そのついでにピクニックをする。 それと、まだラーメン二郎を食べたことがないので、それも食べてみようと思っている。

休みの日だけを並べれば、こんなにも普通の日々が続いているのに。 いつも頭の中は悩みでいっぱいで、よく分からない顔のまま、今日も椅子に座り続けている。

今日も、なんでもない会話は、つっこまれない程度にはうまくできている気がする。 というか、雑談で話し方が変だとか、挙動がおかしいと言われたことは人生で一度もない。

それでも、これは何をしているんだろう、もしくは、何をされているんだろう、という感覚だけは、子どもの頃から何十年もぼんやりと続いている。 いまだに、あるのかないのか分からない壁の手前で、先に進めずにいる。

その壁を越えたと感じたのはいつだったか。

大学のサークルに入ったこと。 卒業から10年以上経った今でも、ときどき会う人たちがいる。 後から振り返ると、あれは確かに意味のある出来事だったと思う。

インターネットでDTMの活動をしたこと。 当時、同人サークルにコンピレーション参加の連絡をして、そこからつながった人たちと、今もゆるく付き合いが続いている。

その延長で、引っ越しという物理的な変化も重なり、結果として結婚することになった。

つまり、自分にとって「先に進んだ」と感じるのは、引っ越しやインターネットのように、環境や接点が変わる出来事だった。

一方で、新しい職場や転職では、何かをこじ開けたという感覚を持ったことが一度もない。 今の職場も、人間関係や環境が特別悪いわけではない。 ただ、時間だけが静かに過ぎていくことが、不安として残る。

ここで長く過ごしたくはないと思い、転職を考える。 けれど、仕事によって人生が大きく変わった経験がない以上、その動機もどこか弱い気がしている。

仕事は自分を変えない。 そう考えること自体が、ここ最近の大きなストレスなのかもしれない。

とはいえ、仕事を辞めるのは現実的ではない。 だから今日も、顔に化粧水と乳液を塗って、表面だけ整えるように一日を始めている。

ストレスのある日は、明確に髪が硬い。 疲れていると、満員電車で立ちながらでも、自然と目が閉じる。 意外と、しんどいときほど満員電車では元気だったりする。 無理な姿勢で、スマホで音楽を聴いたり、文字を読んだりして、 好きなものを無理やり享受しようとする。 もちろんそんな姿勢での動作が、リラックスになるはずもなく、 電車を降りる頃には、新しい疲れが首から頭のてっぺんにかけて追加されている。 満員電車は、脳が疲れている状態で乗ることを推奨する。

毎日日記を書くことを自分に課してから、 100点満点中10点だとしても出さなければならないことに、ストレスを感じている。 それでも、この「10点を出す」という行為に、わずかな意味を見出している。 昔から、他人に何かの提出を求められると、 ナードな性格ゆえに、毎回、整形や添削にこだわってから提出していた。 自分で自分に合格を出すための、60点くらいのライン。 文句は言われないが、賞賛もされない。 褒められることよりも、がっかりされないことのほうが、 自分の行動理由になっているのだと思う。 だから、とりあえずこの10点を外部にさらすことに慣れる。 それが今の自分にとっては大事だ。

そう思いながら、いつものコーヒーと水を手元に置く。 コーヒーを飲むと口が汚れる気がして、それを水で流し込む。 ときどき、自分の口の中の匂いを自分で感じ取り、 それが自分の存在そのものを、少しだけ嫌にさせる。

最近はインターネットも見ていない。 「辛い、辛い」とわざわざ口に出し、眉間に皺を寄せて目をつぶる。 その閉じた目の先に浮かぶのは、 元気に走っている未来の自分だ。 なぜか今より肌がきれいで、草原を走り回っている。 そんなイメージがまだ浮かぶということは、 自分はまだ、自分の人生に心から挫折していないのだと思う。

そういえば朝、オフィスカジュアルのシャツを着たな、と思い、胸元を見る。 妻がアイロンをかけてくれた、きれいなYシャツを着ていた。 位置も、時間も、ずれていないことが分かった。

洗面台を掃除しているか。

部屋の床がきれいでも、洗面台に黄ばみがあれば、その家全体がその黄ばみに侵食されてしまう。 外に出ているときでさえ、あの色は目のシミのように残り、視界の奥を泳ぎ続ける。

その黄ばみが視界に入り込んでいると、自分の一言一言にも重みを与えられなくなる。 声はどこか頼りなく、小さくなっていく。

だから、洗面台だけは欠かさず掃除するようにしたい。 床のホコリを取ることよりも、もっと直接的に、視覚的な不潔さに耐えられないからだ。

うちの洗面台は、いつもぴかぴかだ。 そう言えるのが目標の1つである。

例えば、就職に10社落ちたときに、悔しさの中で、「うちの洗面台さえ見てもらえれば」と心の中で思いたい。

あの黄ばみは、なぜあれほど不快なのか。 水垢、皮脂、石鹸カス、カビ、雑菌、それらが絡み合い、あの色になる。 腐敗の色に近いから、人間は生理的に拒絶してしまうのだろう。

ではなぜ、白は清潔に感じるのか。 人間の身体に、あそこまでの白は存在しないのに、あの潔白さは自己への肯定感を大きく押し上げる。 医療や衛生の歴史の中で、白は安全であるという感覚が刷り込まれてきたのかもしれない。 白い壁や白衣は、汚れや異常をすぐに可視化できる。

しかし、その前提は現実と折り合っていない。 区役所や学校の壁には、経年劣化のヒビやカビが目立つ。 汚れることが避けられない場所に、なぜ白を使い続けるのか。

不潔さを把握したいなら、別の方法があってもいいはずだ。 スコープのようなもので測るとか、可視化の仕組みを変えるとか。 現実には汚れた白が溢れていて、ときどき吐き気すら覚える。 汚れた白の多さが、人間の感覚に負担をかけている気がしてならない。

だからせめて、自分の手の届く白だけはきれいにしておく。

洗面台が潔白であること。 それが、自分の言葉にわずかな支えを与えてくれる。

意見を通すのも、交流を広げるのも、結局はその延長にある。 まずは、洗面台の黄ばみを落とすこと。 それが、自分にとっての小さな一歩だ。

最近、タコス欲が高まっている。 妻と二人で、隅田公園で開催されていた「サルサストリート」へ行った。タコスとお酒が売られている。

相変わらず、タコスを食べるのは難しい。食べ終わるころには手がべとべとになる。最初にティッシュを用意していなかったせいで、その手のままバッグに触れてしまい、中まで汚してしまった。

それでもやっぱり美味しい。タコスの記事などでは、きれいに食べやすい料理としてブリトーが引き合いに出されることがあるが、やはり別物だ。タコスの手軽さ、生地の薄さ、そしてあの美味しさにおいては、すでに完成されていると感じる。あとは、こちらの食べる技術を上げるだけだ。

世の中を便利にすることが、必ずしも最適解とは限らない。自分の側の精度を高めることで解決することもある。タコスはそんなことを教えてくれる。

そのあと、喫茶店「デリカップ」へ。私はホワイトマウンテンというコーヒーを注文し、妻は生姜チャイを頼んでいた。ホワイトマウンテンは、コーヒー特有の苦味が後から追いかけてくることもなく、後味がすっきりしている。たしかにホワイトだ。気に入った。 妻は、生姜チャイが甘すぎると言って、少し残していた。

夕飯は、SNSで見かけた、鶏むね肉にチリソースをかけた料理。これがとても美味い。鶏むね肉がこんなに美味しく食べられるとは思わなかった。また一つ、知見が増えた。

最近は、食事から得る知見が多い。家庭でここまで美味しいものが食べられるという実感もあるが、それ以上に、何か知恵を食べているような感覚がある。外食ではチェーン店で安全性とコストパフォーマンスを、家庭では知恵や豊かさを得ている。そして、あとは個人経営の定食屋がもう少し進化してくれれば、言うことはない。

これだけ簡単に美味しい料理が家庭で作れる時代にもかかわらず、いまだに美味しくない店が存在するのは、少し不思議だ。食べログで調べなくても、ふらっと入った店が驚くほど美味しい、そんな状態になっていてもおかしくないのに、まだそこまでのフェーズには至っていないように感じる。 日本全体にやってほしい事。それは、ふらっと入った店がどこも美味しい事である。

安いゴムで、下にストンと落ちるパンツって何ていうんだろう、と思いながらネットを探したが、なかなか見つからない。 意外に見つからないと思っていたら、イージーフレアパンツという名前で、レディースのジャンルに1,000円くらいで売られていた。 レディースの市場の速さは、思っているより何倍もメンズより上らしい。

もうとっくにIT系の人が、毎日同じような簡易的な服を一色で着続けるスタイルに、最近は少し退屈さを感じているのではないかと思う。 今は泥臭く、毎日服を変えるフェーズなんじゃないかと、勝手に思っている。 おじさんが少し変わった服で個性を出す時代が、そろそろ来るんじゃないかとも思う。だから最近は、派手にお金を使わない範囲で服にこだわることが大事だと感じている。

喫茶店にも、好きな服を着ていく。 場所と服と食事が、自分を分かりやすく豊かにする。 喫茶店なんて、特別にやることがあるわけでもないからこそ、自分の思考がうっすらと浮かび上がり、ぼんやりとした精神性のようなものが前に出てくる。

しかし、場所と服と食事によって自分を満たすことは、自分にとってどれほどの難易度なのか、という話でもある。

安い服の中から良いものを選ぶ。 これはちょうどいい難易度だと思う。 それは若い人の趣味ではないか、と自分にツッコミを入れるが、まあ自分が気に入っているならいいんじゃないかとも思う。 他人はそこまで気づかないことだし、そもそも、おしゃれだ、と認知されてしまうほど派手な服を着る趣味もない。

そして、この趣味の良いところは、毎日続ける必要がないことだ。 たまにおしゃれをするくらいであれば、次の日のチープな服も、それはそれで自分になる。

では何が難しいのかといえば、結局はそれを楽しむ精神性の問題になる。 普段の仕事をこなしながら、その余裕を保ち続けること。 つまり、顔も服も、その場所も、すべて内面を映している。

昔は、顔つきがすべてを表すと思っていた。 顔が精神を映すなら、服や場所は選ばなくてもいいんじゃないか、と。 でも実際には、物理的なものが内面に影響し、現実そのものを少しずつ変えていくのではないかと思う。

服や場所を選べるということは、自分の世界を絵の具のように物理的に塗れる領域が増えている、ということなんじゃないか。 もっと塗りたい。その先に他人はいるだろうか。 他人を塗ることはできるのだろうか。 それとも、他人に触れすぎない距離感が一番美しいのだろうか。

このあたりは結局、時間が解決する。 やりたいことを今やっていれば、自然にすべては進んでいく。 だから、辛いときも楽しいときも、同じスピードで暮らしていくしかない。

実は、明確な暴力を見たことがない。 厳密には、子供の頃にヤンキーが細い子に肩パンしているのを見たことはあるし、 大人になってからは、知識や階級の差のようなものも、広い意味では暴力になり得ると知った。

けれど、自分が考えているのは、それとは別の色をした、 可能性を含んだ白い暴力のようなもの。

暴力とひとくくりにしてしまえば、すべて悪いものとして扱われる。 ただ、自分が言いたいのは、いわば正しい暴力、暴力2.0とでも呼べるようなもので、 暴力の持つエネルギーだけを抽出し、それを誰もが使える形にしたものだ。

それは何だろう。 内側から湧き上がるエネルギーや、爆発したい感覚を、 芸術へと向けること自体は、自分にとって難しいことではない。 ここで言っているのは、「芸術で食べていける」という話ではなく、 そうした暴力性を、創作という形で理性的に処理する力がある、ということだ。

子供の頃は、ただ物を作れることが純粋に嬉しかった。 けれど大人になると、創作はどこか飽きに似たものへと変わっていく。

余った衝動を、創作に落とし込む。 今の自分にとってそれは、西洋風の華美な装飾が施されたゴミ箱に、 自分の油の混じったエネルギーの塊を、ずるりと捨てるような感覚に近い。

創作されたものやエネルギー体は、そこに置かれることで、 他人が安全に触れられる、安定した形になる。 放出されたエネルギーを留める、大人的な装置でもある。

あまりに簡単で、拍子抜けする。 発想力が欠落しているような錯覚、あるいは本当に欠けているのかもしれない。 創作の意味を感じにくくなっている。

しかし同時に、外部との向き合い方、それを楽しむ方法も分からない。

子供の頃にあった衝動とは、すでに向き合い終えている。 おそらく必要なのは、その先にあるもの、 一度閉じた系を、もう一度こじ開ける何かだ。

朝、ベルトを締めたら、穴が一つ狭くなっていた。 腰が少し細くなったらしい。 いい細くなり方だったらいいなと思う。

このまま、まつ毛がいい感じに伸びて、身長も180cmくらいになってくれたらいいのに。 そうしたら、もっとモード系の服が似合うはずだ。

腰が細くなったな、と思っていたら、妻が「今日の卵は爆発した」と言う。 そのせいで弁当はなくなり、昼は外食することになった。

ステーキを200g食べた。 家ではだいたい150gくらいしか食べないので、やっぱり多いなと思いながら、結局は食べきった。

いつもと違う昼だったせいか、コンビニでお菓子が欲しくなる。 「忍者めし 鉄の鎧」というのを初めて買った。 グミに少し硬い飴のコーティングがされていて、これ完全にポイフルじゃないか、と思いながら食べた。

グミはたまに食べたくなるけど、買ったあとで「一つも体に入れない方がいいな」と思うことが少なくない。 体にいい要素がほとんどないからだ。

最近は、舌以外でも食事を楽しめている気がする。 それでも、たまに子どもの感性がよみがえって、お菓子を買ってしまう。 それに、グミを食べているところは、あまり人に見られたくない。

グミを食べているところを見られたら、昇給するものもしなくなる気がする。 いや、そんなことはないか。たぶん普通においしい。

仕事の帰りに、大学時代からの友人がやっているバーのイベントに行く。 ああいう場所でしか、当時の友人にはなかなか会えない。

いい加減、人に会いたいときくらい自分で企画すればいいのに、と思う。 でも、ありがたいことに誘ってくれる人がたまにいるので、つい甘えてしまう。

後輩っぽい振る舞いも似合わなくなってきたし、そろそろどうにかしないと。

週末はタコスのイベントがあるらしい。 それに行ったあと、喫茶店に寄る。

結局、自分にとっては、最後に喫茶店に行くところまでが生活の句点であり、癒しなのだ。

新宿を歩いていたら、「千円札好きなの?」と声をかけられている人がいて、いきなり新宿を食らった。

お茶を買ったら野球のユニフォームみたいな巾着がついてきて、それをしばると普通の巾着の形になるな、と思いながらクッキーを食べていたら、別の席で知らない二人が漫才の練習をしていた。 一人はロン毛で、もう一人はベースボールシャツのような服を着ている。主導しているのはロン毛の方っぽいが、最後にベースボールの方が「これをコントにするのはアリ?」と聞いていた。

みかんのドライフルーツを買って、仕事を少しだけ進める。 「疲れ」への関心が急に強くなって、夜、疲れて寝るというのは結局どこが一番疲れている状態なのか、ということを調べる。 リフレッシュできないまま明日を迎えること、遅くまで活動すると覚醒が収まらず寝る時間が遅れること、会社のように椅子に座ると腰が辛くなること。 結局、家に帰ってから頑張れない理由がいくつも付随している。

今日の自分を壊さないための防衛が強く働いていて、ほとんど自分を責めない生活をしているのだと理解する。

活動そのものがリフレッシュになるものでなければ、結局はただ辛い日々を過ごすだけだと思い、今日も生活に関する知見が少し深まった。

ただ、その知見が増えても幸福に直結しない感覚があって、八方ふさがりのようにも思える。 それでも、自分で試せることや手札をある程度出し尽くした先で、結局は誰かと話すことが一番なのだと、脳が察している。

今日も現実の密度が濃くなって、家の薄暗さを見る。

〇〇さんはもう立派な社員だし、頑張れるよね? そんな昭和的な上司が新入社員に向ける、的外れな鼓舞、あるいはほとんど脅迫のような言葉。

そこには大人というモデルが一種類しかない。 一人で何でもできて、自立している状態こそが大人だとされている。

けれど現代において、そんな状態を達成できている成人は決して多くない。 上司が当てはめるその大人の型と自分の型がにうまくはまっていない事に、言葉にしづらい違和感だけを抱えたままの若者の絶妙な顔が浮かんでいる。

特に、将来の明確な目標ややりたいことがあるわけでもなく、ただなんとなく穏やかに暮らしたいと思っている若者に対して、 適切な大人のモデルを提示できる上司は、いったいどれだけいるのだろうか。

そんなことを考えながら、そう言われている人を眺めていると、 もはや共通点は人の形をしているということだけのようにも思えてくる。

そう思いながら、俺はショッピングモールのフードコートにあるサーティーワンへ向かう。 アイスはいつも通り、ナッツトゥユー。 甘いバニラの中でナッツをガシガシと噛む感覚が好きだ。

食べ終えたあと、モール内の服屋を軽く眺めてから職場へ戻る。

鏡に映る自分を見ると、左足で歩くときだけ体重を外側に逃がしている。 トイレの全身鏡で歩き方を微調整する。

調べてみると、中臀筋という骨盤を安定させる筋肉があるらしい。 これがうまく機能しないと、歩くときに体が左右にぶれるという。

中臀筋を鍛えるにはクラムシェルという運動がいいと知り、 会社の廊下で人が通らないのを確認してから、こっそり体を動かした。

特に任されている仕事もないので、近くの公園まで散歩する。

ベンチに座っていると、たいてい子供たちがサッカーをしている。 ボールがこちらに飛んでくると、子供の一人が、俺が危ない人かどうか判断しかねる様子で、 「おいおい」と仲間に声をかけつつ、 「一応言いましたからね」という空気だけをこちらに投げてくる。

人は子供の頃から、危険に対してちゃんとリスク分散ができているのだなと思う。 少し寂しくもあるが、仕方がない。 どう取り繕っても、子供から見た大人は怖いものだ。

ゴールデンウィークには、妻と公園へピクニックに行く予定だ。 車で1時間ほどで行ける場所を、その場でスマホで調べる。

いくつか候補をメモに残し、静かにその場を後にした。